前川食堂への思い。語ります。


 

 秋の読書週間。学校では図書委員会がさまざまな企画に取り組む季節です。

 私の前任校の鴨沂高校で、かつて生徒の委員会が、「あなたのお気に入りの校内スポットとその理由を教えてください」という全校アンケートをとったことがあります。一番人気は「教室」。そして二番が「食堂」でした。(ちなみに三番は「図書館」…と、ちょっと自慢!)

 教室、と答えてくれた子たちのコメントからは、この学校で過ごす日々を大事に思う気持ちが感じられて、最初「え、一番が教室?」と不思議に思った私はちょっと泣かされましたが、食堂が好き!と答えてくれた子たちのコメントもまた素敵でした。限られた短い時間で書かれたごくシンプルな一言コメントですが、どれも食堂の空気をそのまま映したように幸せであたたかく、彼らが「おっちゃん、おばちゃん」と呼ぶ前川さんご夫婦がどんな風に子どもらと接しておられるのか伺えるものもたくさんありましたっけ。

 

 アンケート結果をまとめた当時の冊子から、食堂のページを載せてみます。コメント(抜粋です)を読んでみてください。

 どんな場所でありたいか、あろうとするか、考え続け努力を続けてくださる「人」がいて、はじめて成り立つものがあります。良きものを残す英断を!

 

 

 

 

(元鴨沂高校・学校図書館司書より)


フェイスブックを開いていると、フッと目に留まった記事。

わが目を疑いました。

まさか、食堂が存続の危機に瀕しているなど、思いもしませんでした。

 

私は2000年3月に鴨沂高校の定時制を卒業しました。

私ども定時制の生徒にとっての食堂は、昼間生のそれとは少し違っているのかもしれません。給食制度があったので、決まった献立の夕食を食べに通っていました。

美味しいのになかなか夕方まで残らないカラアゲが購入できた日はラッキーな日。

 

私は4年間、給食を申し込んだ時期も、申し込まなかった時期も、ずっと、ずーっと食堂に通いつめました。

当時、年齢の割に大人びていた私にとって、同級生でもなく、先生でもなく、ただただ私の苦しみを全部吸い込むように受け入れてくれて、代わりに「ちゃんと食べなさい」と温かい食事を渡されるあの瞬間は、手に入らずに苦しんだ家庭の安らぎのような瞬間でした。

あの4年間、おそらく私の両親よりも、誰よりもお経さんが一番私の些細な変化も見逃さず見守ってくれていました。

「どしたん、今日は顔色が悪い」

「楽しそうやん、なんかええことあったん?」

そうやって、厨房からカウンター越しに一瞬で見抜くほどに、食堂に入ってくる生徒を見てくれていました。

望んでも望んでも、なかなか穏やかな私生活が手に入らず、どうにかなりそうだった時も、私の足は食堂へと向かいました。

グズグズいう私の話を聞きながら、あれこれとはなしてくれるお経さん。その後ろで、ただ無心に鍋を振っているのかと思いきや、実は結構しっかり聞いてる博基ちゃん。時折、私たちの会話が出口を見失うと、ボソッとひと言。

 

私はそんな食堂に支えられて、無事に卒業まで心を壊すことなく過ごしました。

食堂は私にとって最後の砦でもあったのです。

 

私の一番好きなメニューは、白菜とえのきのほんのり酸っぱいおひたし。

17年の時がたってもすぐに思い出せます。多くのおかずの中からそれか?!と言われるかもしれませんが、あのおひたしが好き。

 

早めに食堂へ行くと、バイト君が弁当箱を洗って、それを互い違いに積み上げていることがありました。これまたキレイに直角に。それを眺めながら、テーブルにへばりついて、お経さんが相手をしてくれるのを待っていた私。

パートさんが、迎えに来たお嬢さんと帰っていくのを見送った日もありました。

 

卒業しても何度かフラリと遊びに行きました。

いつもの、あの変わらぬ空気を感じて、ホッとしたのを覚えています。

 

多感な年ごろの4年間。

私には苦しいことも、悲しいことも多い4年間でした。

でもその反面、私は人生で一番の大恋愛もしました。

私は博基ちゃんとお経さんを、そんな私の青春時代の証人だと思っています。

私たち夫婦にとって、かけがえのない場所が失われるのは残念でなりません。

 

何か、お手伝いできることがあれば、お知らせください。

 
(2000年夜間定時制卒業生/原田(網)桐子)


 入学して初めて先輩に連れて行ってもらった食堂。その時唐揚げを買いました。その美味しさに感動。これが高校の食堂か!素晴らしい!そう思いました。

 それから僕の昼休みは野球部、クラスの友達と一緒に食堂で食べ始めました。昼休みになるとみんな食堂に行き、すごく混んでいます。すごいです。僕は基本的にはお弁当を食べてましたが、もちろん唐揚げやポテトは買います。そして初めて食堂で食べたチキンカツ定食。安い、そして何より美味しい、もう一度感動しました。

 食堂で何回もメニューを頼むに連れおばちゃん、おっちゃんに名前を覚えられ、メニューができたら大きい声で呼ばれる。これがまた嬉しかったです。野球の大会の前には頑張りや!などと声もかけてもらってやる気も出させてもらいました。そして気づいたら3年経ってました。いまでも食堂にはほぼ毎日行ってます。僕の三年間は食堂で出来ていると言っても過言ではないでしょう、笑。

 これからも食堂利用し続けたいです。

 

 (在校野球部3年生)


「もう今はメニューに無いねんて。『インディアンチキンカツカレー』。今日限定で作ってもろた。インチキ!最高!」

 

「僕もインチキ大好きやった(泣)」

 

(1989年度卒業生)


夏の弁当箱……

食べた後の弁当箱に容赦なく照り付ける太陽……

そして帰って来て弁当箱を開ける恐怖!

こんな悩みにも食堂にはいつも助けてもらいました。

酷暑の毎日、直射日光に蒸れるお弁当を持たせる怖さをなくしてもらってます。

作り立てを食べさせられる安心感!

ほんとに有難いです!!

 

(現役野球部保護者より)


鴨沂高校の食堂の思い出を。

わたしは好き嫌いがとても多くて、食堂名物の唐揚げも食べられませんでした。家では我が子のために、唐揚げやら生姜焼きやらを作って弁当に入れていましたが、自分は食べない。かわりに食堂の「教職員弁当」をよく頼んでいました。素朴な手作り感いっぱいの回数券を買うと、5000円で11回お弁当が食べられます。わたしの好き嫌いを徐々に把握して、特別弁当を作ってくださってました。唐揚げのかわりにコロッケとか魚とか。職員室まで配達してもらうことが多かったけど、食堂で食べると味噌汁つき。昼休みの食堂は生徒もいっぱいでごった返してたけど、そこでワイワイ食べるお弁当もまたよかった。

生徒会の担当をしていた時は、文化祭のイベントの景品を食堂の食券にしたり。これがまた生徒に大人気だったな~。前川お父さんが手作り食券を準備してくださってました。懐かしい❤️

この続きはまた次回に!

 

                                               (元鴨沂高校教員)


真夏のある日、息子はポツリと呟いた。

「冷やし中華って、美味いな」

え?何言うてるんや、きゅうり嫌いやのにと聞いてみると

「食堂の冷やし中華が、美味いんや」

え?え?お前きゅうり食えへんやんと聞いてみると「タレがめっさ美味いから食える」。

今でもきゅうりは食べないけれど、ここの食堂の冷やし中華のきゅうりなら食えるようになりました。

タレだけでも持って帰りたいっすわ。

(現役保護者より)


我が家の子どもは運動部でした。

お昼休み食堂が、

部活の先輩や後輩との交流場所でもあり、

仲間と共に楽しい時間を過ごしたようです。

お弁当も持たせましたが、

お弁当を準備してやれない 時は、

学食にとてもお世話になりました。

忙しい朝、今日は食堂でとお願いすると

大きくガッツポーズをして喜んでいた息子の姿が

思い出されます。

高校の学食の大好物メニューは、

息子にとって生涯忘れられない味となり、

学食での楽しかった時間と共に、

とても良き思い出の一つとなり、

親としてとても感謝しております。

これから先も鴨沂の多くのお子さんにとりましても

学食の存在が憩いや癒しの場所になりますようにと、切に願っております。

                                           

(卒業生保護者より)


☆中学3年生の時に学校説明会で鴨沂の学食を食べて、

ママと2人であまりの美味しさに感動して、

絶対に鴨沂に行きたい!と思って、鴨沂に決めましたー。 

(1年生在校生より)


 まあいろいろありまして、おそらく一定数の子がその時期そうであるように、中学生の私は絶賛「大人なんて大嫌いだ期」でした。

 勉強という行為がそもそも嫌いというか苦手で、遊び心もないほどクソ真面目な性格のくせに成績は良くもなく、頑なゆえに楽しめず、楽しめないので成績は伸びず、しかし周りに真面目な印象を与えていたからか、(おそらくこいつならチョロいと思われていただけか)確実に自分よりも勉強ができるクラスメイトから宿題を写させてほしいと毎日のように頼まれ、「ああ、きっと間違いだらけなのになぜ私のを。というか馬鹿なのがバレる。」と自分の理想と現実にひとりで勝手に悩み苦しんでいました。

 そんな私の進路相談ではもちろん、当時の担任教師からは「まあ公立は無理でしょうね」と言い放たれ、「そういう決めつけるみたいなことを言うから大人が嫌いなんだよ!やってやるわ!」と燃え上がり、燃え上がったからといって大して成績は伸びませんでしたが、なんとか公立に入れました。

 なので忘れもしません。合格発表で自分の受験番号を目にしたときは幻を見た気ながら喜び飛び上がり「ざまあみろ大人よ!」と、心の中で復讐を遂げました。

 当時の私はもはや受験をする前から、私立公立云々以前に「入学するなら絶対鴨沂」と言っていたのを覚えています。その理由が「校舎」であり、あの「食堂」の存在でした。 

 語ろうとしてますが実際私は三年間、毎日ありがたくも親が作ってくれた「弁当持参組」で、どちらかというとクラブボックスに入り浸っていたので、あの賑やかな食堂のお世話になることがありませんでした。

 それでも聞こえてくるのは「唐揚げ丼」の噂。

 「食べろ、すんごいおいしいから絶対食べろ」と友人がしきりに言うので、というか最終的には自分のをわけてまでくれたので、私も時々食べる機会がありました。

 鶏肉が玉子でとじてあるけれど、その鶏肉は衣がついた「唐揚げ」なので、それは「親子丼」ではなく「唐揚げ丼」でした。

 ただ唐揚げをごはんにのせるのではなく、唐揚げに温玉が乗っているスタイルでもなく、鶏肉に衣がついているのをさらに玉子でとじるというダイナミックさ。衣が分厚めで、味が染み込んでいて本当に「すんごい」おいしかったです。

 実は今でも自宅で真似して作ります。仕事で疲れて帰った時なんかに、ぐわあっと思い出してぐわあっと食べると、その「ダイナミック」に満足して、その日あったいやなことのいくつかは忘れられる気がします。

 昼食時は超満員。私はそこに混じることはありませんでしたが、受験前の学校見学で校舎に足を踏み入れたときから感じていた、流れる空気の違い。規則に固められた「学校」というイメージよりも、そこには生活が生徒個人の判断に任された大人な世界観があり、その最たるものを「食堂」に感じていました。実際は滅多に利用しなくても「あの食堂がある感じが、いい!」とひとりで興奮していました。

  休み時間や放課後も沢山の人が出入りし、各々が好きに過ごしていました。「学校」なのにテレビがあって、お昼時じゃないのに何かを食べている人もいれば、数人で寄って話をしている人、当時流行ったプリクラを交換しあうために手帳を広げたり、行事のちょっとした話し合いなんかもあそこでしたと思います。知らないおじさんがいたので、「あの人は誰?」と先生に聞いたら、「学校やけど、食堂は食堂やから誰でも入れるんやで」と言われて驚いた記憶があります。

 高い天井に羽根の長い扇風機がついていて、緩やかな午後の光の中に、「自由な時間」が流れているように感じました。それはとても大人っぽくて、「そうだ、大人って、大人っぽいってきっとこれなんだ。この雰囲気なんだ。やっぱりそういうことなんじゃん!」と、外側から見ているだけでも満足で、地味でちっぽけな反抗心の塊だった私も、大嫌いだった大人のことはすっかり忘れて、自分もこういう世界の仲間入りをしていくのなら、大人になるのも悪くないなと思うことができました。

 

(小谷彩智/2001年度卒業生)


今日も、オムカレー大盛りを注文!

揚げたてのコロッケとから揚げが、

僕のお気に入りで定番メニューです。

今日も明日も、

オッチャンの愛情たっぷりのおかわりカレーが楽しみです。

 

(在校生3年生より)


我が家の息子も3年間ほぼ毎日、前川食堂でお世話になりました。

美味しいと噂で聞いていたので文化祭の時に行ってみました。人気の唐揚げ定食とタコライスのどちらかに迷いましたが今回は唐揚げ定食に!

人気メニューだけに美味しかったです。

次回はタコライス!と思ってましたがなかなか機会は現れず息子は卒業してしまいました。もう食べる事ないかな?と思ってたらチャンスが訪れました。

今度は勿論、タコライス!

量は中か小か迷ったのですが多目ということなので小に。

美味しくてお腹いっぱい!

しかも370円という安さ!

こんな美味しいご飯食べれるなんて鴨沂の生徒が羨ましい!とつくづく思いました。

 

(卒業生保護者より)


今日は、用があって立ち寄った、

鴨沂高校学食の唐揚げ使ってアレンジ

息子大好物のメニュー💕

唐揚げマヨネーズ丼❗

懐かしい味するかな?

 

(卒業生保護者より)


僕は鴨沂の近所が家やから、昼休みはだいたい、家に帰ってたんで、食堂にはあんまりお世話になってへんかったけど、やっぱり、早弁とかには本当に便利させてもらってました。

今年、子供が中学3年になり、オープンスクールに仮校舎で前川さんが食堂されてて、やっぱりすごい懐かしかったし、受験生にも人気だったんで、それがほんまは無くなるかもしれないんやったら、鴨沂の魅力がすごい欠けてしまうと思う。

僕らの頃は学校の門も出入り自由やったけど、今はなんか、出入りするには学校に許可取らんとあかんらしいね。そしたら僕らの子供も、毎日弁当持たさんとあかんし、それは負担になる保護者さんもたくさんいはるんちゃうかなあ。。。前川さんの食堂、来年また校舎に帰ってきたら、ますます必要になると思います。またぜひ来年子供も一緒に会えますように!!!

 

(1992年度卒業生より)


前川食堂は我が家の息子達、ガッツリとお世話になりました。

下の息子は兄貴があまりにも美味しいと言うものだから、小学生の頃から高校は鴨沂と決めていました!

私も仕事をして常にバタバタとしているのでとても有難い存在でした。

でも、任せっきりではオカンがお弁当作ってくれへん!って言いかねないので、お弁当を作ろうとするとお弁当作らんでええよ。食堂の方が温かいし、美味しい!って

なんか複雑な気持ちになってしまいました。

それに、たまにラーメンに唐揚げを入れてもらうこともあったみたいで、育ち盛り、食べ盛りの学生にとっては嬉しい限りやと言ってました。

本人曰く、みんな美味しいけど一番美味しかったのは唐揚げ卵とじ丼らしく

私も食べましたが、間違いなかったです!

 

(卒業生保護者より)


 鴨沂に入学後、登校した日には必ず行く場所が2か所ありました。一つは図書館、もう一つが食堂。今になって思えば、学校に、学校ではない空間を求めていたのかもしれません。食堂と図書館には、確かにそれがありました。

 食堂へ毎日行くといっても、朝8時頃に弁当を注文し、昼一番にダッシュで弁当を取りに行き、小腹が空いたら10分休みに唐揚げを買いに行く、といった具合で、昼の時間は避けていました。お世辞にもコミュニケーション能力が高い、どころか人並みとすら言えなかった私には、おそらく、昼休みの食堂は明るすぎたのでしょう。

 弁当といっても赤くて大きな長方形の弁当箱でしたので、ぱっと見であの弁当が400円というのは想像できないほど、豪華なものでした。取りに行く時に置いてある箱の量からして、毎日20人ほどは頼んでいたのではないか、と思います。よく頼んでいたものには、大きめのチキンカツ丼に唐揚げが3個ほど、パスタとサラダ、漬物、あとは日替わりの揚げ物が入っていたと思います。受取時に温かいというのも非常にありがたいものでした。今になって思えば、昼食時間直前の食堂がどんな状態か、想像を絶する慌ただしさであったはずです。コンビニのように、利益と効率優先で、受け取ってから電磁調理器で再加熱するのが前提のような業態には、絶対に真似のできない存在です。

 楽をしようと思えば、いくらでもできたでしょう。食材コストも下げる余地はあるはずです。弁当は冷めたのが当たり前、であるならば、調理開始時間を早めることもできたはず。なのに、それはされなかった。食べる側のことを第一に考えて食堂を運営されていたから。聞かなくても、食べればわかりました。芯のある食堂だからこそ、毎日同じものを食べていても飽きなかったし、3年間食べ続けることができたのだと思います。

 失って初めて気づくことがあるように、卒業してから価値がわかることがあります。大学に入学してから、鴨沂の特殊性、こと前川食堂の持つ魅力を実感することが多々ありました。卒業したからといって、前川食堂はなくなりません。今は、価値に気づけば食べに行けます。「あの頃は良かった」「もったいないことしたなぁ」なんて、年寄り臭いセリフ、年寄りになってから言えばいいではないですか。良かったと思うなら、何か行動をしましょう。もったいないと思うなら、残す努力をしましょうよ。 

 

 (津田壮章/2006年度卒業生)

 



60歳の誕生日に、

紅しょうがで「寿」の文字を描いた丼を作ってくださったのが忘れられません!

ホンマに嬉しかったです。

 

(元鴨沂高校教員)


うちの息子のお気に入りは『オムカレー大盛り』です。

唐揚げものっていて、お皿からあふれそうにたっぷりとかかったカレー。

『大盛りはカレーのおかわりOKやしな』

ご飯が一口でも残って入れば、カレーをたっぷりとおかわり。

前川食堂の愛情を感じるこだわり。

こどもの食を安心してお任せ出来る学食のオムカレーに感謝…です。

 

(現役保護者より)


 京都府庁まで、食堂の存続を求める署名簿を在校生保護者の方たちと一緒に提出しに行った。

 その際に対応してくださったのはお二人の職員で、かたや署名簿を手渡す側とおおよそ同世代、かたやお一人は恐らく20代頃だろう。保護者さん達は署名簿を手渡すとともに、アレヤコレヤとお願い事をされた。みんな、アツい思いのお母ちゃん達。引き止めて口々に、いつ終わるとも知れない要望を長々と言い出す中、その若い担当の方に、「あなたも学生の頃、食堂があって、よかったなあって、思ってはったでしょう?」と問われた。

 すかさず、「僕の通ってた中学も高校も大学も、食堂はなかったし、自分で弁当作ってたんで」。彼は硬い表情のまま、少し顎を上げたまま答えた。

 彼の立場からすれば、こうした要望を出されるたび、いつもの業務以外の雑事が、さらに追加されるので大変だろう。その様子を見て居て、私には彼が、その言葉の続きに何を言わんとするか、少なからず分かる思いがして居た。しかも男の子が当時、自分で弁当を作って学校に通っていたとなれば、子供の頃は大変な苦労人だったんじゃないかとも想像される。

 

 実は私もその若者と同じく、中学の頃から弁当は自分で作って持参していた。親は共働きで忙しく、あるいは家庭内は殺伐としており、心も体も忙しい両親の作る弁当は、栄養や色味のバランスどころかのお粗末なもので、上の兄は子供の頃から、弁当の中身を隠すように蓋を衝立のようにして食べるのが癖だった。だから、自分の弁当を作るのと一緒に、兄の弁当も詰めていた。兄は先に同じく鴨沂高校に通うようになると、「食堂もあるから作ってくれんでええで」と気遣ってくれた。ちなみに、私は鴨沂高校生時代、前川食堂では、ほぼお世話になっていない。記憶では時々、当時100円で売ってた食堂手作りのサンドイッチを間食に利用していただけだ。が、当時の食堂の雰囲気は、今もありありと思い出すことが出来る。

 私のように直接利用者とは程遠い者にとって、鴨沂の食堂を一言で要約するなら「心地よい疎外感」、だろう。だが決して、それは悪い意味ではない。

 当時は今の生徒数の2倍以上あり、食堂は昼休みどころか、休み時間も終始ごった返していた。常連ともなると名前が覚えてもらえて、みんな親しそうに食堂の人たちと会話していた。テーブルは暗黙で体育会系クラブの子たちがお決まりの場所を陣取っていた。

 その頃、厨房の内側には小・中学校の同級生で、夜は鴨沂の定時制に通っていた男の子も働いていた。彼は兄弟が多く、確か片親は早くに他界した苦労人で、ゆえに子供の頃から大変な料理上手だった。そんな彼は、前川食堂のあたたかな環境の中で包まれて幸せそうにしていた。そんな彼の様子を時々垣間見たりしながら、私も幸せな気持ちになった。食堂の喧騒、それを逃れて校内や、鴨川の土手、隣接の御所など、それぞれのお気に入りの場所で食堂のランチを食べる者、教室で週刊漫画を回し読みしながら丸まって食堂の麺類をすする者、、、そんな、同級生や先輩ら。どこもかしこも、美味しそうな昼間の光景だった。とにかく、誰も彼も、前川さんの食堂を中心として幸せそうだった。

 卒業後。ほんの時折、同級生らと会って鴨沂の話になると、決まって出てくるのは演劇コンクールや、仰げば尊しパレードの思い出話になる。そして、これら鴨沂の校風改革と共に今や消え去った伝統行事の話に加えて、必ず盛り上がるのが食堂の話だ。彼らはみんな、口々に思い出のメニューを言い合って、何十年も経ったというのに、当時の頃のままの幸せそうな表情を浮かべる。

 「あれまた食べたいなあ!」「まだ前川さん、食堂やってはるで!こないだ行って食べて来た!」「僕のことまだ名前覚えてくれてはったで」「元気にしてはった?会いたいなあ!」「うわ、ええなあ!私も行こう!」。

 食べ物にまつわるお話は本当に、平和である。私も、彼らの表情を見て居て、まるで食堂の常連でもあったかのような、幸せな気持ちになる。

 先日、現在の仮校舎でも運営されている前川さんの食堂にて、時々手伝いをしているという人が声をかけてくれた。「実は同級生ねんけど私のこと、覚えてへんかな」。「ごめんなさい!私、当時は鴨沂に居てるようで、居てへんかったからな。愛校心ゼロ、外でばっかり遊んでたし」「笑。私は当時、学校で友達とかあんまり作らへんかったし、食堂に入り浸ってから」。そう言われて、なんとなく思い出してきた。食堂の常連中の常連。あの場所を校内の、まるで中学校の優しい保健室よろしく、駆け込み寺のようにして居た子。調理中の食堂で、お父ちゃんお母ちゃんと戯れるようにくっついて。そうそう。そういう子もたくさん居たな。。。

 卒業して数十年。今、私と同世代あたりがちょうど、高校生を子供に持つ頃である。時代はさらに多様で複雑になった。友人知人らは大抵が共働きで忙しくしている。あるいは、離婚家庭も私らが子供の頃よりはるかに増えたと感じる。温かくて美味しい匂い、台所で手際いい包丁の音なんかをBGMに、お父さんお母さんとあれこれ会話しながら、テーブルで食事を待つなんて光景は、むしろ稀有だろう。

 心地よい疎外感を与えるかと思えば、またどこか、疎外感を抱えた子供を招き入れてくれる場所。美味しい食事と共に、ほかほかと癒しを与え、寛容な心、互いを理解し合う心を育んでくれた場所。前川夫妻を中心に、そんな場であった鴨沂の食堂。今後益々、学校という環境の中、心を育む場所として、ここは貴重な場になるのではないか。そしてここで得た体験がまた、社会に出た時、幸せな心のゆとりを、他の人たちと分かち合えるのではないか。。。

 

 署名提出の際の若者は、四半世紀以上も年上の世代に囲まれつつ、果敢に言いたかった事があったのかも知れない。しかし、お母ちゃんらはにっこり笑って、「ほな、是非鴨沂の食堂に食べに来たらいいよ!その良さがきっと分かるから」とすかさず返した。

 彼は参ったなという表情を浮かべて苦笑いした。それは多分、ああ言えばこう言う的な、子育ての匠らに対しての困惑だっただけかも知れない。しかし、私にはお母ちゃん達の言った言葉は、実に真をついていると、そう思えてならなかった。

 

(谷口菜穂子/1989年度卒業生)