図書館から食堂へ。歴史的建造物の素敵なリノベの形を夢見て。


 鴨沂高校には、通常、学校施設としてよくある「図書室」ではなく、立派な一棟建て(鉄筋コンクリート2階建て。積層書庫4層。)の「図書館棟」がありました。

 落成は昭和13年のこと。前身の女学校「京都府立京都第一高等女学校」の頃に建てられたもので、大容量の蔵書を保管する立派な書庫を有し、その建設費を始め、当時6万冊と言われる所蔵書籍に至る費用の全ては、ご父兄や卒業生、在校生保護者らの全額寄付によって、当時賄われました。

 それまで、女学校は明治期より木造校舎だったのですが、昭和の御大典記念行事の一環として、昭和8年のプール棟に始まり(2013年の校舎解体によって失われた建屋。現在の北運動場に建ち、これも当時、全額寄付によって建設されました)、本館校舎と次々にRC建物に改築され、その総仕上げとして最後に建てられたのがこの図書館棟です。

 ちなみに、昭和13年という年は、前年に勃発した日中戦争によっていよいよ、日本国内は戦争へと舵きりを行った時代です。昭和12年10月に行われた法改正では、軍需施設などの特別な建物以外では、コンクリートや鉄骨などの使用が出来なくなったという大変な頃です。そんな情勢にあっても、建屋の構造にふんだんに使われた当時貴重な建築資材の数々は、当時、皇族も通われたこの学校がいかに特別な存在であったことが伺えるのです。

 さて、この建物の構造には当時、女学生や保護者さんらの悲願でもあった思いを読み取ることができます。

 九条家から移築された正門に並んで、寺町通沿いに建てられた図書館棟ですが、出入り口がその正門側である寺町通側と、本館敷地側の両方に備えられています。これは当時、この建物をパブリックスペースとして捉え、卒業生や一般の方らも利用できる図書館として出入り出来るような考えがはっきりと見られるのです。

 明治、大正、昭和初期。女性が今とは程遠くあらゆる権利に制限のあった時代。

 昭和初期の女学校時代に辣腕を振るわれた鈴木校長先生は、盛んに「女子にも男子と同様の高等教育機会を与える必要性」と主張され、女子教育の発展について、強く、呼びかけを行われたそうです。その先の図書館は、当時まさに前衛的なパブリックスペースとして、誰もが勉学に親しめる環境としての、図書館づくりを提唱されたのではという思いが馳せます。

 こうした先人らの思いのつまった図書館は、2013年から行われている校舎改築の中で、建物の「図書館」としての役割は終えさせられてしまいましたが、今後、2018年の新校舎完成時には、新たに「食堂」として、再スタートを切るとされます。

 その昔、たくさんの方の思いが詰まった場所、当時その蔵書量を高らかに誇った場所。そして、オープンな場として、広く門戸が開け放たれていた特別な場所。

 この建物の持つ物語として、今後、蔵書もなく空っぽになり、食堂という名の、厨房設備もない、空虚なテーブルのみが並べられたスペースにならないよう、あるいは、今やどこにでもある、ありふれたコンビニエンスストアと化さないよう。

 女学校時代から引き継がれ、男女共学となった鴨沂高校が、また特別な場として、誰もが納得する、鴨沂の名物食堂がこの場で存続し、また、かつての賑わいを取り戻すとしたら、そして、広く府民の皆さんも喜んで美味しい食事が出来る場となるなら、それならばきっと、先人らの気高い思いも、そのご寄付されたお心も、浮かばれるのではないでしょうか。


◉鴨沂高校に残る旧図書館棟の歴史等、2013年校舎改築時の時系列的詳細はこちら

http://coboon.jp/memory.of.ouki/archives/2970