学生新聞「鴨沂新聞」で紐解く食堂の歴史


 日本初の名門公立女学校(京都府立京都第一高等女学校)を前身としている京都府立鴨沂高校は、昭和23年、昭和初期建築の女学校校舎内にしてそのまま、新たに共学高校として誕生しました。この「鴨沂」という名前の由来は、前身である女学校の同窓会組織名である「鴨沂会」が起源とされているようです。

 さて、これまで長きに渡り歴史を刻む鴨沂高校ですが、その数ある伝統の中には、学生の学生による自治が存在しました。その活動の軌跡を辿るには、「鴨沂新聞」という、これも学生発行の校内新聞があります。当時、学区制により鴨沂高校や現・洛北高校などと分かれた学生らではありますが、「洛北新聞」からの流れによって戦後間も無く発行された「鴨沂新聞」は、昭和48年ごろまで在校生が引き継ぎ、代々に渡り発行され続けました。

 この学生新聞を読み解くと、当時の学内の様子がつぶさにわかります。学内でどんなことが起こったか、また、その時代性や、改革の歴史なども手に取るようにわかります。長年の歴史を、こうして書き記して下さっていた大先輩方。その後、これらの資料が数十年後に、どれほど貴重な検証資料となるかを、若かりし頃にご想像されていたでしょうか。

 さて。平成29年に新聞でも出版されたことが取り上げられていた、2001年から3年間に渡り赴任されていた拝師校長の著書「京都府立第一高女と鴨沂高校」にも、前川さんらの食堂の紹介とともに、鴨沂の食堂の歴史が記述されています。

 そこには、食堂の歴史として冒頭、「鴨沂高校に食堂が実現したのは、昭和32年(1957年)4月。『夜間課程を置く高等学校における学校給食に関する法律並びに同法施行令』という長ったらしい法律の公布により、生徒の健康保持増進のため、給食施設が設けられることになりました」と書き上げられています。けれど、この鴨沂新聞における食堂関連の記事を読みひらうと、その歴史自体はさらに以前からだった、というのがわかりました。

 鴨沂新聞では、食堂に関する記事は少なくとも昭和28年には見あたります。また、こちらの新聞。すごいな!と思うのが、一般の周辺商店や取引業者さんらから、広告収入を得て発行されているところ!購買部や食堂から広告収入を得ていながら、時には食堂批判記事も同じく紙面で掲載するあたり、時代といえば時代かもしれませんが、忖度の無いメディアのあるべき根本的姿が、初々しいほどキラキラ輝いています。

 鴨沂高校の食堂は、旧校舎本館(管理棟)、2013年より改築改修工事中の、本館建屋の中央として残った建屋の地下1階に、当初は存在しました。その場所では昭和28年から昭和43年と、15年間に渡り営業されていました。

 当時の白黒写真を見ていてとても驚くのは、地下にはボイラー室などが存在しましたが、新聞の写真記事を見る限り、地下を降りる階段の段裏が、なんと食堂スペース、だったようです。

 食堂の沿革を紐解く記事によると、鴨沂高校に食堂が誕生したきっかけは、昭和26年、朝鮮戦争の動乱の最中に、アメリカによる『ララ物資』(※アメリカの救済統制委員会が昭和21年に設置認可した日本向け援助団体。日系アメリカ人によって立ち上げられ、昭和27年まで、日本に向けて食料や衣料、医薬品などが敗戦国日本に届けられた。)の提供で建てられたミルク販売所が起源で、当初は定時制の学生向けミルク給食所とされています。その後、昭和28年に正式な食堂として、全日制も定時制も共々に利用できるよう、開設されたのが発端とされます。

 その後、利用者の増大とともに、地下という環境への懸念や食堂自体の環境改善を求める声は、学生から再三に渡って訴えられ続け、昭和30年台半ば頃には、学校や京都府に対し、学生やPTA、全日制と定時制が連携して訴え続け、数年にわたってようやく実現したのが地下環境から地上への食堂の新設。昭和43年の事でした。

 地下から地上へ移って程なくして、食堂の運営は現在の食堂運営者である前川さんのお父様が引き継がれ、その後の昭和55年、現在の前川さんご夫婦が食堂運営で腕を振るわれ、現在に至ります。

 その時々に学生らのアンケート結果を受けて、食堂メニューも、当初のうどんやそばなどの簡単なものから、今日のようなメニューに大進化を遂げました。

 つまり、現在も継続されている鴨沂高校の食堂は、学生らによる長年の要望とともに、その胃袋と心を満たすべく育まれ、進化を遂げた、貴重な学校環境だったというわけです。

 以下の写真スライドに、各年代ごとの食堂に関する記事を抜粋し、文字が細かいので要約も付加しております。その沿革とともに、たくさんの卒業生らの在校中の働きかけによって継承され続けた鴨沂の食堂。

 2013年の校舎改築計画によって、一旦食堂もろとも解体されてしまいましたが、前川食堂は現在も、移転先の仮校舎にて営業中です。この愛すべき学校環境を、また再び、2018年完成予定の新校舎でも実現されることが強く望まれています。


<鴨沂高校の食堂沿革>

 

昭和26年(1951) アメリカのララ物資による提供で、定時制向けのミルク給食所を起源とする。

昭和28年(1953) 校舎本館地下の階段裏にて食堂及び購買部が開業される。当時は蕎麦、うどんのみだった。

昭和30年代〜 地下食堂の環境に対し、食堂の規模拡大と衛生面の改善を要望し、食堂の地上化が叫ばれるようになる。

昭和43年(1968) 全日制、定時制、PTAの再三にわたる要望が実現し、校舎北側にあった女学校時代の控所及び雨天運動場が解体され、その場所に体育館棟と食堂が完成する。
昭和55年(1980) 現在の前川さんご夫婦が率いる食堂となる。

平成25年(2013) 校舎の全面的な改築及び一部改修により、寺町荒神口校舎より、元産業大付属の空き校舎へと移転。前川さんらの食堂も設備と共に移転営業。

平成30年(2018) 寺町荒神口の校舎。工事完成予定。旧図書館棟が改修され、図面上では1階に食堂空間はある予定。厨房設備は現段階で図面上、示されていない。


食堂に関する学生新聞「鴨沂新聞」内の抜粋記事。

※記事写真をクリックすると、拡大表示及び記事概要が見られます。


参考資料

平成10年発行『鴨沂新聞復刻版』編集・発行 鴨沂新聞復刻版をつくる会

平成29年発行「京都府立第一高女と鴨沂高校」